境界性人格障害 -ボーダーラインな私の人生-

幼少期のお話6

 

父のお店に遊びに行くようになったある日

お店の常連の女性が帰る前に

「最近奥さん見かけないけど、どうしたの?」と、父に聞きました。

 

その時、父と私。そしてその隣には父方の祖母がいました。

答えたのは、私の隣にいた祖母でした。

「あの人はもう来るのが嫌だって」

私は心の中で「え?違う…」と思いました。

 

実際、違いました。

お店は父名義だった為、離婚したせいで母はお来れなくなったのです。

何年も父の代わりに頑張ってお店で働いた母の姿を知っていた私は「違う!!嫌で来ないんじゃない!」と、強く思いました。

 

でも、私の隣にいた父は何も言いませんでした。

 

その姿をみて、私は父を心底嫌いになりました。

父が居なくなってからの数年間、母は一人幼かった私たち姉妹を育て、父の代わりにお店を守り、頑張っていたのに…。そんな母を否定した言葉に対して、何一つ擁護しなかったコイツはなんなのか?

その日以来、私は父に会いに行くのをやめました。そしてそれ以降父に会うことはなく、私と父が再開したのはそれから約21年後の事でした。

 

 

 

境界性人格障害 -ボーダーラインな私の人生-

幼少期のお話5

 

父が帰って来なくなり、何の説明もないまま

時間だけが流れていき、私は小学生6年生になりました。

 

その間、母は父の代わりに夕方や

夜遅くまで働き

私は家で母の帰りを待っていました。

小さい頃は

火を使っちゃいけない!

と言われていたので

お腹が空いたらお菓子やカップ麺をたべたりしていました。

しかし、やっぱりまだ子供なので

母親が恋しくい気持ちと、純粋にお腹がすいたという気持ちで母が働くお店に電話をして

「お腹すいた!ご飯食べたいー!」などと

わがままを言っては、母に怒られた記憶があります。

 

今考えると

面倒だし、手もかかるし、聞き分けのない子供だったと思います、、、笑

 

そんなある日、母は姉と私を呼びました。

そして一言言いました。

「お母さん、離婚したから。」と。

 

小学6年にもなると

離婚という事がどういう事なのか

自分の家庭が周りと違う事も薄々理解していました。

なので、私は「あっそ。」ぐらいの返事しかしませんでした。

 

ただ、この離婚により、父が靴屋をやることになりました。

つまり、毎日どこにいるかがわかるようになったのです。

どこにいるか、いつ会えるかわからなかった父に会える場所ができたことを、この時の私は

嬉しいと思ってしまいました。

 

私は、休みの日などは母にお弁当を作ってもらい、父が居るお店に遊びに行くようになりました。

今考えると…

この時母はどんな気持ちだったのか?

残酷な事をしていたんじゃないのかな?って

思う時がありますが、聞いたことがないので

その真意はわかりません。

 

ですが、こうやって父のお店に遊びに行くようになったある日。

私は父をこの世で1番最低で

もっとも嫌いな人間だ。と思うようになりました。

 

 

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幼少期のお話4

 

私は、父が帰って来なくなった理由を

誰にも聞きませんでした。

母や姉からも、説明された記憶はありません。

 

大人になってから姉に聞きましたが

母は幼かった私を気遣って、理由を話さなかったそうです。

母や姉の曰く、私は感受性が強いのだとか。

今でも自分ではこういう事はよくわかりませんが、友人や会社の仲の良い人などには

出会った頃に必ずと言っていい程

「変わってるよね。」と言われていました。

長い付き合いになった今でもたまに言われてます。笑

 

母は私に理由を話さなかった。

私は母に理由を聞かなかった。

 

お互いにこの行動を取ったのは

互いを思いやった結果だと思いますが

その結果、私の思考はこうなりました。

 

父が帰ってこなくなった

→理由はわからない

→原因が何かを考える

→自分が好かれていないから、姉よりも出来が悪いからだという答えに辿り着く

→こんな出来の悪い子供は愛されない

→自分は愛されてない、いらない子

→だから父は帰ってこなくなった

 

この心理は

虐待を受けた子供に多い思考なのだと

大人になって知りました。

しかし私は身体的虐待も

ネグレクトもされた覚えは全くありませんし、実際されてません。

しかし、今考えると、突然父がいなくなった事に関してのケアは、誰からもされていなかったな。と思います。

 

子供の心のケアは、本当に大事だと思います。

特に小さい子供は、自分で生きていく力がないので、本能的に親を頼ります。

 

これは何かの本で読んだ記憶がありますが

 

育ててもらわないと、生きられない!と

本能がそうされるのかもしれませんが

虐待を受けた子供は、親や親の行動を肯定し

親が怒るのは自分のせいなんだ。と思うそうです。

なので、大人になったときに自己肯定力が低くなるのだとか。

 

虐待は受けていませんが

私も自己肯定力が低いです。

大人になり自傷行為もしたりしていました。

私はよくこう思っていました。

 

自分は価値のない人間。

生きていても誰も喜ばない。

死んだ方がお金かからないし迷惑もかけない。

絶対的に愛してくれるはずの親にも愛されなかった人間。

親にも愛されなかった人間を他人が愛してくれるはずない。

 

と。

実際、30歳過ぎまでこの考えは続きました。

 

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幼少期のお話3

 

ある日突然父が居なくなり

会いたくても会えない寂しさから

私は自分の部屋でよく泣くようになりました。

 

ただ、母や姉に

なぜ父が帰って来ないのか?

その理由を尋ねた事は、私が記憶する限りありません。子供ながらに聞いてはいけない事のような気がしていたので聞きませんでした。

その質問をしたらきっと

母が悲しむと思ったからです。

 

父に会いたい!と言って泣いたりする事も

同じくいけない事なのだと感じていたので

母や姉の前では泣きませんでした。

いつも自分の部屋のベッドで枕に顔をうずめ

声が漏れないように泣いていました。

声にもならない声をあげ

嗚咽も涙も、全て枕の奥底に押し込むように

吐き出していました。

 

私の部屋は2階でした。

いつも1階で母が夕飯の支度をするタイミングで泣いていました。

少しでも母に声が聞こえないように。

母はきっとわかっていたと思います。

でも、誰もそれには触れませんでした。

 

不幸でもいい。

毎日殴られてもいい。

それでもなんでもいいから

神様お願いします。

たった1日だけでいいから、昔みたいに

家族4人で笑いながら楽しく過ごしたいです。

お願いします。

 

そう何度も何度も

私は神様に同じお願いをしました。

でも結局、その願いが叶うことはありませんでした。

 

 

 

 

今、このブログを書いていて気づきましたが

世間ではもうすぐ父の日ですね。

 

私は、父の日が嫌いでした。

 

私が小学生の頃は

親が居ないことに対しての偏見が

今より強かったように思います。

いじめや悪口の的にもなるかもしれない。

それが怖くて、私は友達にすら

父がいない事を隠していました。

 

今でも思い出す友達とのやりとりがあります。

下校時、友人が

「明日父の日だけど、何買ったー?

もうあげるもの思いつかなくて

プレゼント用意できてない」

そう言いました。

それを聞いて私は

「私はネクタイにしたよ。緑色のやつ。」

と答えました。

私は何食わぬ顔をして嘘をつきました。

まるで本当にネクタイを買ったかのように。

 

 

父の日にプレゼントを用意した事はありません。

なぜなら渡す相手が居なかったからです。

父の日も、父親参観の日も、運動会も

音楽会にも、父が来た記憶はありませんし

家族旅行も、お祭りも、花火大会も

父といった記憶はありません。

 

父の日は私に関係がない日ですが

今でも時折、プレゼントを買っている人を

羨ましく思う時があります。

 

祝える相手がいることが

実は幸せなことなのだと気付くのは

案外に難しい事ですよね。

 

 

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境界性人格障害 - ボーダーライフな私の人生 -

幼少期のお話2

 

実際のところ、いつ頃まで父が家にいたのか

はっきりとは覚えていません。

でも、いつ頃からか

父は家にもお店にも帰って来なくなりました。

私が小学1年の時は居たと思います。

 

父が居なくなり、母は夜までお店で

働くようになりました。

そして私は鍵っ子になりました。

学校が終わると、家に帰りました。

たまに学童に行っていた記憶もあります。

 

家に帰っても、誰もいませんでした。

姉はすでに中学生。部活もしていたので

帰ってくるのは夕方でした。

 

私は大抵、テレビゲームをしたり

母がTSUTAYAで借りてきてくれていた

ディズニーやジブリのビデオを見て

時間を潰していました。

 

そう考えると、今はYouTubeやネットで

映画やアニメが観られるので

留守番するにはいい時代なのかな?笑

 

たまに、母方の祖母が遠くから

遊びに来てくれていました。電車を乗り継ぐと

1時間はかかったと思います。

年齢的には結構大変だったんだろうと

今ならわかります。

 

たった一度だけ、祖母が居る日に

父がプレゼントを持って、帰ってきた事がありました。

誕生日でも、クリスマスでもなんでもない日。

父は私にスーパーファミコンのソフトと

専用の収納ケースをくれました。

 

子供だったので、単純に何もない日に

プレゼントを貰えたのが嬉しかったです。

それに父に会えた事も。

 

ただ、父からすれば罰が悪かったのでしょう。

プレゼントを渡すなり、すぐに行ってしまいました。

私は遊んで欲しくて駄々をこねましたが

祖母に軽く挨拶して去って行きました。

 

当時は今のように携帯電話は普及しておらず

連絡を取る事もできず、居場所もわかりませんでした。

 

それでも、どうしても父に会いたかった私は

苦肉の策として、父方の祖母の家に

たまに泊まりに行くようになりました。

 

なぜか?

 

土日に泊まりに行くと、たまに父が

祖母の家に来る時があったからです。

 

ただ、私は父方の祖母の事を

あまり好きではありませんでした。

 

なぜなら、父方の祖母は

母の事をよく思っておらず

いつも私に母の悪口を言うからです。

それに、祖母がつけている香水のキツイ

匂いも苦手でした。

 

「このライトは、母が壊した。」

「母にはあげないが、おばあちゃんが亡くなったら、この宝石は全部〇〇ちゃん(私の名前)にはあげるからね。」など。

今思い出しても不快に感じる思い出です。

 

それでも、父が来る事を期待して

何度も泊まりに行きました。

 

父が来た日は、みんなでトランプや花札をして

遊びました。何度も何度も繰り返し。

父がもう帰るといっても

私は「あと一回!」「もう一回だけ!」

と駄々をこねては、少しでも父との時間を

得ようとしました。

 

しかし、父はだんだんイライラして

いつも最後は「しつこい!」といって

出て行きました。

 

それでも。

そんな扱いをされても

幼い私にとっては

父に会えることが本当に嬉しかったのです。

 

 

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境界性人格障害 - ボーダーラインな私の人生 -

幼少期のお話 1

 

小さい頃の私は体が弱く

よく肺炎になったり、ひきつけを起こしたりして

入退院を繰り返していました。

 

点滴は慣れたものでしたし

入院する度に親戚におもちゃを貰ったり

母方の祖母には売店でお菓子を買ってもらったりしていたので

記憶の中の入院ライフは

意外と楽しい思い出として残っています。笑

 

ただ、そのせいで幼稚園は休みがちになり

さらに超がつく程の人見知りだった為

友達も少なく、近所の子供会への参加さえも

嫌過ぎてやめてました。

 

当時、両親は共働きで

家の最寄駅から数駅離れたスーパーの中で

靴屋を営んでいました。

靴屋はスーパー1階の路面店

目の前の道路を挟んだ向かい側には

父方の祖母が営むブティックがありました。

 

商店街だったので

周りの大人はみんな顔見知りばかり。

私は幼稚園が終わると、いつも祖母のお店か

商店街の人達のお店で遊んだり

お手伝いをしたりしていました。

 

夕方になると、母は私を連れて家へ帰り

父は最後までお店に残っていました。

 

私には6歳上の姉がいます。

姉とはよく喧嘩をして、よく泣いていました。

泣くと必ず父に慰めてもらっていたような

記憶があります。父が好きで甘えていました。

 

父はパソコンやゲームが得意で

私はよく教えてもらっていました。

だから今でもゲームが好きで

パソコンを触ったりするのも得意です。

 

幼稚園にはいつも寝坊して遅刻をするのに

土日は誰よりも早起きでした。

父も早起きでした。

だから休みの日の朝は、パジャマ姿のまま

よく父と遊んでいました。

 

でも、いつからかは覚えていませんが

多分私が小学1年生の頃あたりから

父は土日の朝は早く出て行くようになりました。

 

私はいつも遊んで欲しくて

玄関で出ていこうとする父の背中に向かって

「どこ行くのー!遊んでよー!」「連れてってー」

とよく駄々をこねていた記憶があります。

 

思い出すのは

振り返ることなく出て行く父の後ろ姿と

「ゴルフに行くから。」というセリフ。

そして、出て行った後に残された私の姿と

幼いながらに思う

置いていかれてさびしいなという気持ちと

玄関の片隅に残されていた黒いゴルフバッグ。

たぶんですが、父はゴルフをする人ではありませんでした。

 

記憶を思い出す時

私は不思議といつも

その光景を、大人の目線の高さで

俯瞰している構図になります。

 

わかりやすく言えば

よくアニメとかで、大きくなった自分達が

当時にそのままタイムスリップして

小さい頃の自分達を見ている。

みたいな場面ありますよね?

そんな感じです。

 

皆さんも同じような感じなんですかね?

人それぞれなのかもしれませんが

私の場合はそうなんです。

 

だからなのか

大きくなってその場にいる私はいつも思うんです。

かわいそうだなって。

置いていかれて、かわいそうだなって。

 

そして、子供の頃には知らなかったであろう

むなしい。という気持ちだけは

思い出している"今"の自分が感じるんです。

 

私の人生にとってこのシーンは

とても重要な場面なのだと思います。

 

ただし、この場面の本当の意味に気づくのは

大人になって、いろんな事を知った後の

お話なんですけどね。

 

 

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境界性人格障害 - ボーダーラインな私の人生 -

プロローグ

 

はじめまして。

今、これを書いている私は36歳

境界性人格障害(ボーダーライン)で

双極性障害 プラス HSP っぽい

バツイチ子なし、彼氏なしのアラフォーです。

 

バツイチって

なんでバツってゆーんですかね?

誰にとってのバツ(✖️)なんだろう?って

そーゆーいろんな事を疑問に思うアラフォーです。笑

 

さて、これからここに書いていく物語は

私のこれまでの人生です。

世の中の誰も全てを知らず

その時関わった人はその時だけしか知らない。

 

私だけが全てを知っていて

私だけしか全てを知らない。

そんな物語です。

 

別に 私はすごい不幸です!とか

なんで私ばっかりこんな目に会うの、、、とか

そーゆー事を言いたいブログではないです。

 

ただ、世間一般的に、とか 周りに比べると

私の人生は少し変わっていることが

多い気がしたので、綴ってみようか。と思い

このブログを始めました。

 

私の人生は

誰かにとっては恥で

誰かにとっては見難くて

誰かにとっては気持ち悪くて

誰かとっては面白くて

誰かにとっては、、、

もしかしたら助けになるかもしれない。

 

たぶん、、、そんな人生だと思います。

 

これから少しずつ、時間のある時に

書いていこうと思います。

ご興味があれば、読んでいってください。

 

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